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MOTTO FUKULUCKY (LIMITED) MOTTO FUKULUCKY
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STORY

STORY

ひょうたんの物語は、昔々の日本海から始まります。 青くて広い海の真ん中に、まんまるくて大きな船が浮かんでいました。

その船の上には、とても縁起の良い宝物がたくさん! 打ち出の小槌に、絵巻物、小判、ひょうたん、宝石たち…それは、宝船なのでした。

穏やかな航海を続けていた宝船でしたが、ある日、嵐が来て波に飲まれてしまいます。
どんがらがっしゃーん、ばらばらばら。
次々に海に放り出された宝物たちは、それから長い長い間、海を漂い続けることになったのです。

そんなある日、大海原の旅を終えた宝物のひとつが、石川県は小松の浜にたどり着きました。
きれいなくびれを持った丸い形…そう、ひょうたんです。

ひょうたんは、体の中の海水をぴゅーっと吐き出しながらむくりと起き上がると、すたすたと歩き出しました。

宝物の仲間たちと離れ離れになり、ひとりぼっちになってしまったひょうたん。
さみしいけれど、きっとまた会えるはず。そうだ、みんなを探しに行こう!

ひょうたんは前を向いて、小松の街の中へと歩き出したのです。

さあ、ひょうたんの旅の始まりです。

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KUTANI POTTERY

MADE IN KOMATSU,
ISHIKAWA, JAPAN

九谷焼について

九谷焼の歴史は350年ほど前に遡ります。明暦元年頃(1655年頃)、加賀百万石の支藩である大聖寺藩内の九谷(現在の石川県加賀市山中温泉九谷町)の地で、鉱山開発中に陶石を発見。大聖寺藩の藩主・前田利治がその地に窯を築き、磁器の生産を開始したが、何故か50年あまりで突如として窯は閉じられます。

この時期に製陶されたものを「古九谷」と呼び、九谷焼の歴史の始まりといわれています。当時を詳しく語る文献が残っていないことから、閉窯の理由をはじめとして古九谷には謎が多く、それがかえって焼き物ファンを引きつける要因の一つになっています。

それから100年ほど後、加賀藩は殖産振興のために金沢・卯辰山に春日山窯を開き、磁器の生産を始めます。その春日山窯の陶工・本多貞吉が、江戸後期の文化8年(1811年)に能美郡花坂村(現小松市花坂町)で良質の「花坂陶石」を発見。文化2年(1805年)から能美郡若杉村(現小松市若杉町)で家業の瓦製造を行なっていた若杉窯の十村・林八兵衛が、春日山窯に留まっていた本多貞吉を招いたことで、若杉に本格的な磁器の窯を築かれ、磁器生産が始まったといわれています。

この若杉窯は、初めて加賀において磁器を量産化し、加賀藩の殖産興業の柱となる窯になります。また「花坂陶石」は、現在も九谷焼の原石として使用される重要な原料となっています。この貞吉の功績は大きく、次々に諸窯を興すことになりました。

その後、南加賀の各地で築窯が相次ぎ、「再興九谷」の時代に突入。古九谷の再興を目指した吉田屋窯、赤絵細描画の宮本窯、金襴手の永楽窯など、様々な作風が打ち立てられ、それらが今日の九谷焼の源流となりました。現在は、伝統の技法を踏まえながら、作家一人一人の創意工夫により、浪漫あふれる新たな九谷焼が日々生まれています。